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記事一覧

無庵詩集(5)

の ぶ は んごぼっ    ごぼ   ごぼ暗い海の底から鉛色の大きな潜水ヘルメットをかぶった男が浮き上がってくる。港の船のライトやパトカーのライトが海面をキラキラ照らすのぶはんはまだ見つからないごぼっ    ごぼ   ごぼ暗い海の底から黒い潜水服の男が浮き上がってくる。港の船という船がライトを一斉に海面をキラキラ照らすだめだ!沖に流されとる!翌日のぶはんの死体が上がったのを聞いた人たちは口々に残念がっ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十一)

                     明石海峡大橋の下を行く船沙弥島の長崎の鼻近くにあるタンポ(湛甫)の存在は丸亀の中津から来た船が嵐に遭遇すればこの隠江に逃げ込んだということであり。長崎の鼻を廻ってナカンダ浜には避難しない。中の水門は 「那珂の港」というような原文書き換えの犯罪的行為は問題外として、多くの学者が支持する金倉川河口の中津説ではないという決定的な物的証拠によって讃岐への往還の...

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無庵詩集(4)

岸壁にたたずむ遠い昔のことだ。ふるさとの散歩道この道のすぐ先に太郎が住んでいた太郎はあれからどこへ行ったのだろう。太郎の父の葬儀の日、友だちと喪服の行列の中から顔を出したら太郎は僕らの姿を見つけてにやりと笑って手を振った。それから間もなく太郎は転校していったしゃべり、黙り、笑い、 泣き、やすらぎ、苦しむ・・・遠いふるさとの散歩道ぼくの生まれた町は海の香りに包まれた町入り江の船着き場錆びた錨の鉄の匂...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十)

    大阪歴史博物館資料より三津埼 浪牟恐 隠江乃 舟尓公宣 奴嶋尓三津の埼浪を恐み隠り江の 舟なる公(きみ)は宣(の)らす奴嶋(のしま)に浪を恐み隠江(こもりえ)」の隠江(こもりえ)とは隠れた入江ということである。この歌の場合「浪を恐(かしこ)み」に続いているので嵐のため避難した入り江であるということがわかる。当時は現在のような天気予報がないわけだから突然嵐に襲われたのだろう。そのため航路にはいつ襲われていて...

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無庵詩集(3)

             雀(すずめ)雀の群がパッと飛びたつまるで海の中の小魚の群れのように数十羽の群がすばやく木から木へ池の上を旋回する。空から地面へ地面から木へ。木の葉が揺れるそして可愛い目であたりを見回したかと思うとたちまち空に向かいジグザグに飛びながらやがてクスノキのてっぺんへ太陽を背に黒い点になった雀たちが点々と拡がるまた地面に降り立ち草地を...

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石中死人歌から羇旅歌へ(九)

難波の津から淡路経由で讃岐を目指したと考えられる羇旅歌の存在は大正・昭和期の日本の国文学者武田 祐吉(たけだ ゆうきち)がすでに予言している。武田祐吉は斉藤茂吉が当時最高の万葉学者であるとたたえた学者である。『[羈の馬が奇]旅歌 八首(巻三・二四九-二五六)が、四国ゆきの際のものとしてあげられる。この八首は、それぞれ、三津の埼、敏馬の埼、淡路の野島が埼、藤江の浦、可古の島、明石の門、飼飯の海等の地名...

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無庵詩集(2)

    時             雨昨夜来の雨で公園の草はらは水浸し大きな水たまりができていた人の通らぬ水たまりは清く澄んで草たちを鮮やかに浮き上がらせていた秋風が吹くたびにその水たまりは小刻みに揺れた            いつのまにか また雨がふってきた 雨は音もなく落ちてきた ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(八)

人麻呂が松山の津から船出していたことは重要な意味を持つ。彼は賓客として訪れていたのである。賓客として訪れていたということはその理由や時期が分かり易くなったということでもある。私は当時2つの理由を考えていた。それをひとつに絞りかねていた時、来賓としてきているのであれば、もしかしたらその道中、羇旅歌にそのヒントがあるのではないかとふと思いついたのである。ところがこのふとした思い付きがこれまで坂出の歴史...

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無庵詩集(1)

     春の日の夕暮れ   春の日の夕暮れ   ぼくは港に向かった。  辺りは白色に溶けていた。    目の前の道路は白く光り    空は鉛色にひろがり    太陽が白く輝いてる  埋立地を通り抜けると    こどもたちがあそんでいた。    幼子が白いセーラー服の娘を追いかけていた。    おそらくふたりは姉妹なのだろう  幼子が追いつくと姉は    笑いながら身をかわす    ひらりひらりと...

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石中死人歌から羇旅歌へ(七)

船浮而 吾榜来者 時風       ふねうけて   わがこぎくれば ときつかぜ  この時風(ときつかぜ)を「引き潮の前後時を定めて一時的に吹く風」と解説する学者もいますが毎日引き潮のたびに避難しなければならないほどの暴風が吹くなど絶対あり得ないことです。私はこの歌の舞台になった坂出の海の傍で生まれ育ちましたが一日のうち朝と夕方に陸風と海風が切り替わる時間帯に確かに風が吹きますがウチワで扇ぐ程度の心...

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石中死人歌から羇旅歌へ(六)

中乃水門従 船浮而 吾榜来者    なかのみなとゆ ふねうけて わがこぎくれば                         いよいよ人麻呂は中の水門(みなと)から船を浮かべて漕ぎ出します。人麻呂が讃岐国府の賓客として訪れていたということは人麻呂の乗った船は讃岐国府の最高の船であり、大陸との交易に使われていた大型船だったと想像できる。船員たちはもちろん林津(林田)の船乗りたちである。石中死人歌に登...

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石中死人歌から羇旅歌へ(五)

私は坂折峠近くに行ってみて愕然としました。そこはまさに軍王の歌の世界そのものだったのです。目の前に白峰連峰が広がっています「大君の 行幸(いでまし)の 山」とは白峰連峰でありそのふもとには行宮が建てられていた。その横には製塩土器遺跡が存在し、海人(あま)おとめらが塩を焼いていた。なんと軍王は見たままの風景を素直に詠っているのだろう。別れてきた妻の住む大和の方角(白峰連峰)から山越しに吹く風が、絶え間...

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石中死人歌から羇旅歌へ(四)

松山の津にあった讃岐国府の迎賓館の歴史を振り返ると舒明天皇の行幸における行宮に行き当たります。軍王歌がそのときの様子を詠っています。私が軍王歌が松山の津で詠われたものだと教えられたのは「綾・松山史」によるものです。香川県の小さな村に過ぎない綾・松山村の村史は1000頁をこえる分厚いものです。この村史を作成するために地域から提供された古文書等の「文書は数千点」に及ぶと書いています。特徴的なのは松山村...

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石中死人歌から羇旅歌へ(三)

人麻呂が松山の津から船出していたということは人麻呂は賓客であったいうことです。そのことは当時松山の津には迎賓館が立っていたということになります。886年 讃岐の国司としてやってきた菅原道真が松山の津にあった迎賓館である松山館に出入りし、美しい詩を残しています。晩春遊松山館(晩春に松山館に遊ぶ)です。菅家文草 222晩春遊松山館(晩春に松山館に遊ぶ)官舎交簷枕海脣     官舎(かんしゃ)簷(ひさし)を...

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石中死人歌から羇旅歌へ(二)

讃岐国府のある綾川河口には三つの港がありました。西から国津、林津、松山の津です。わたしは中央にあった林津が中の水門だと呼ばれていたと判断しました。当時林津は讃岐国府の外港として位置づけられ、国府からこの林津まで馬さし大貫という一直線の大道(距離は約5K。幅10~12m)が造られていました。また鎌倉時代には梶取(かじとり)という地名の存在が確認でき現在林田町にある東梶、西梶の由来が想定されるそうです...

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石中死人歌から羇旅歌へ(一)

何故大和島の姿を求めて私が神戸の海岸を探索していたのかを振り返ってみたいと思います。私は軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す坂出松山の津に関心を持ちライフワークの一つとして取り組んでいました。最初に取り上げたのは次の歌です。万葉集第二巻二二〇番  讃岐狭岑島視石中死人     (さぬきの さみねしまで いわのなかの しにひとをみて)  柿本朝臣人...

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明石の門より大和島発見

この神戸沖を映した(と、言うよりも映してしまった。)1枚の映像の意味の持つ大きさ、責任の重大さに何度も逃げ出したくなりました。この写真は明らかに人麻呂が詠った大和島の姿です。手前の二上山付近の山並の向こうにあるのは大和の山です。しかもこの山並は音羽三山「左から音羽山(852m) 経ガ塚山(889m) 熊ガ岳(904m) )です人麻呂羇旅歌八首に詠われた255天離  夷之長道従  戀来者  自明門  倭嶋所見[一本云 家門當見...

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プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。なお引用される場合は無庵「忘れられた古代港坂出松山の津と詩歌人」よりの記入をお願いします.
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