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記事一覧

無庵詩集(15)

涙目色の花たち今 太陽が沈もうとしている涙目色の花たちよグラデーションされた夕焼けの空黒雲には用がない涙目色の花たちが突然ぼくの周りで漂いはじめぼくは花の中へと溺れゆく花と花の隙間から夕日が眩しく輝くぼくは底なしの花の海へ堕ちてゆく...

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与一の母と中学生時代

「わたしの母は一口で言へば不羈(ふき)奔放人であったように思う。健康であり、情熱家であり、夢見る人であり、それでいて随分実行力のある人だった。父は今の香川県坂出市の人であり、母は岡山県瀬戸町の奥の山村の人であった。父が岡山市第六高等學校醫學部に通っていた頃、恋愛して結婚したのではないかと思ふ。そんなことはつひぞ聞かなかったが、母の実家の父は村の有力者であり、進歩的な人で、村の北端 にある砂山を背負...

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無庵詩集(14)

春のように飛べ三日月が青い光を放ったその日ぼくは君の足音がもうとっくに消えていたのも気が付かないでいや本当は気が付いていたんだ。君の目に涙がいっぱいで、そしてもちろん僕の目も涙がいっぱいで何故振り向こうとしなかったのか浮かんでいた星たちよ別離の真実が歌のように、風のように確かにこらえきれないため息がぼくたちは歌を唄えなかった、哀しい歌さえ聞こえないそして今青い空、白い雲、流れる風の歌青い草が揺れる...

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与一と父与吉郎

中河与一年表によると人麿碑建立当時のことが記録されている。「昭和一一(1936)年 三九歳一月末より衰弱はなはだしく、二月中句まで慶応病院に入院し輸血一六〇グラムを妻幹子より受ける。前年より連載中の「愛恋無限」を四月二〇日をもって完結。日活及び新興キネマと「愛恋無限」の映画化の契約が成立、撮影所を訪問し俳優たちと記念写真をとるものの、両者とも契約を実行せず、映画は実現しなかった。. . . . .人麿の遺跡を...

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補注   沙弥島の荒磯にある柿本人麿碑

この柿本人麿碑は1936年 (昭和11年) 11月2日 坂出出身の文人中河与一の建立したものです。その頃のことを与一は次のように回想しています。「その夏(昭和11年)、わたしは郷里の坂出に帰り、家族とともに瀬戸内海の本島で過ごした。自分の傷ついている心を慰め、身体の養いを取るためであった。. . . . .そこにいる間、わたしは夕なぎの海面を通ってゆく夜ふけの内海航路の船を歌い、濃い朝靄(あさもや)の中の牛島の...

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無庵詩集(13)

私の光秋の日の午後水鳥たちが羽根を休める堰を下る水音だけが静かに響く対岸の木々が色づきなめらかな川面にその艶やかな影を映しとる突然その水面をけりたて2羽のカモがあわただしく飛び立つ旅人は懺悔のつぶやきからひととき離れるこれでよかったんだと言い聞かせ空を見るそして 今青空は        私の青空白い綿雲は、すべて 私の雲たちすべての光は    私の光...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十九)

沙弥島を出発した船は明石海峡までいきます。復路では日生と、明石あたりで宿泊しているはずですが往路のようには歌を詠んでいません。山陽道を東進する歌はありますが博多からの帰りに詠まれた歌です。持統天皇8年12月6日(694年12月27日)藤原京遷都の時は人麻呂は高らかに藤原宮御井歌(藤原宮の御井(みゐ)の歌)を詠んでいます。ところが701年律令国家の完成祝賀とも評される元日朝賀の盛大な儀式のおりには人麻呂は歌は詠...

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無庵詩集(12)

涙の向こうの宇宙船悲しみは宇宙の果てからやってきたぼくは腹這いになってつぶやいたんだ丘の向こうは 街? 海?  丘の向こうはオリオン座たどり着けない峠道  思い出してほしい 遠い昔の物語遠くで星が 迎えに来た星たちが(あくびをする)君は知っているだろうか その物語をここは月の通り道ひとりぼっちの夜駆け登った日暮れ道涙の向こうの宇宙船限りない宇宙のはて彷徨う 迷子の宇宙船 向かうは  どこ? どこ?...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十八)

梅原猛は天才哲学者です。そのひらめきは天才しか持ちえないものです。このひらめきによって数多くの歴史上の事実があぶり出されてきました。今日さまざまな研究者から批判され梅原猛は終わったと評する人もいますが梅原猛は始まったばかりです。彼は坂出市誌から沙弥島の歴史を学びこの小さな島におびただしい古墳のあることに着目し、沙弥島は中国の流人島「沙門島」だったのではないかとひらめく。それは彼の大作「水底の歌 」...

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無庵詩集(11)

輝きを無くした星たち 詠えない詩人が去ってゆく絵が描けない絵描きが立ち止まる唄えない歌手が両手を下げる笑顔を忘れた道化師飛んでけ鳥よ    鳥の涙飛んで行け涙    しゃぼんだま飛べない鳥が振り向く輝きを無くした星たち走ることをやめたマラソン人考えることをやめた哲学者タオルを投げられたボクサー夢を亡くした旅人が歩く 飛んでけ花よ    花の涙飛んで行け月よ   月の涙泳げない魚が沈んでいく輝きを無...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十七)

いよいよ人麻呂は讃岐国の外港松山の津に入港します。出迎えたのは国司道守朝臣(みちもりあそん)でした。道守朝臣の案内で讃岐国に入った途端人麻呂は愕然とします。そこで目にしたのは飢饉に苦しむ人たちの地獄図絵のような光景でした。人麻呂は宮廷歌人としての誇りを取り戻すことしか考えていなかった自分を情けなく思いました。道守朝臣はこの人たちを救うためには巨大なダム湖満濃池の建設しかないと熱く語りました。人麻呂...

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無庵詩集(10)

闇暗闇が窓の外で中を窺っている暗闇がひしひしと忍びこんでくる暗闇がぼくの部屋を押しつぶそうとするぼくの心に暗闇がひしひしと押し寄せてくる風が死のほとりをさまようその風を分かっていたんだ聞こえぬか幻の薄き幸せわかっていたんだ解かれていくつむじ風聞こえぬか、その笑い、その涙わけも知らず通り過ぎてゆく流離い人若き日通り過ぎたあの時鐘の音が私を包み咲いていた幻の紫色の花びらが今散ろうとしているだからそれは...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十六)

さすがの塩飽水軍も鳴門海峡では潮待ちのため一泊したようです。 現在の南あわじ市湊港から満ち潮に乗って一気に「粟の小島」の見える*庵治港に向かったのです。 https://goo.gl/maps/bHjACALXcDT2この位置の右上通路を海寄りにストリートビューで見て下さい  ということは「苅薦(かりこも)の 乱(みだ)れ出(い)づ見(み)ゆ 海人(あま)の釣船(つりぶね)」の姿は人麻呂 は船上から見た風景だったということになり...

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無庵詩集(9)

  歩むこの道はどこへ続く道なのですかどこ? 帰る家の無い人の向かう道        歩いても  アルイテモ  他人(ひと)の街    夕餉の匂い、笑い声、叱る声      そこは他人の街、帰る家は有りませんそれは小さな夢だったいくつかの喜びといくつかの悲しみが通り過ぎて行ったいくつかの別れといくつの出会いがあったその思い出を握りしめて歩いてきたもう夢を見るのはおよしなさいそう あなたには前を進むし...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十五)

二五一粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返あわじの のじまのさきのはまかぜにいもがむすびしひもふきかへす   訳 淡路の野島の崎に吹く浜風に妻が結んだ祈りの紐が想いを載せて吹き返す。  野島の崎から見た本州この野島の崎はいよいよ本州が波間に消えようとするのが見える位置です。この風景を見なければこの歌の意味は理解できません。妻の住む本州から離れいよいよ未知の国、四国へ向かうわけです。「もう二度と生...

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無庵詩集(8)

ユリカモメ突然 背後から数十羽のユリカモメが現れるユリカモメたちは 頭上に現れ、川に向かうユリカモメたちは 天に向かい、 地に向かう、カモメたちよ    太陽は怖くはないかカモメたちよ    雲は怖くないか数十羽のユリカモメが舞う拡がり、狭まり、円になり、四角になるユリカモメたちは突然大きく回り 山に向かうユリカモメたちは垂直に鋭く舞い落ちるカモメたちよ    太陽は怖くはないかカモメたちよ   ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十四)

250番歌珠藻(たまも)苅(か)る 敏馬(みぬめ)を過(す)ぎて夏草(なつくさ)の 野嶋(のしま)が埼(さき)に舟(ふね)近著(ちかづ)きぬ船は淡路島に近づきます明石海峡です明石海峡を西に回ります https://goo.gl/maps/DkAakMiUPeS2なお港を見る場合はgoogleマップで「野島蟇浦(ひきのうら)漁港」を見てください淡路島の西海岸です.私は淡路島の西海岸を見るのは初めてです。もう40年以上も前から淡路に来ていますがいつも東海岸で...

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無庵詩集(7)

 冬 の 下 り 坂凍てつく冬の坂道カチンコチンの道だからただむしりとるために買った薔薇カチンコチンの道だから散らして散らして下り坂薔薇の花びらとってゆくカチンコチンの道だから花びらを口に当て飛ばそうとしても飛びはしない凍てつく冬の下り坂撒き散らされて真っ赤な花びら...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十三)

幻の大作「羇旅歌―讃岐-」はまず249番歌から始まる。三津(みつ)の埼(さき) 浪(なみ)を恐(かしこ)み隠(こも)り江(え)の 舟(ふね)なる公(きみ)は宣(の)らす奴嶋(のしま)[野嶋]に続く歌は250番歌である。珠藻(たまも)苅(か)る 敏馬(みぬめ)を過(す)ぎて夏草(なつくさ)の 野嶋(のしま)が埼(さき)に舟(ふね)近著(ちかづ)きぬ訳 (玉藻を刈っている)敏馬を通っていよいよわれらの船が(夏草の)淡路の野島の崎に近づいた敏...

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無庵詩集(6)

      少            女秋の日の昼下がりぼくは公園のベンチで本を読んでいた人懐っこそうな眼をしたショートヘアーの少女が近づいてきた少女はショッキングピンクのふんわりしたセーターを着ているふと優しそうな少女の母親を想像した「お母さん好き?」すると少女は首を横に振った。「え?きらいなの」少女はまた首を振る「お母さん居るんだろ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十二)

人麻呂は新令(大宝令)の講釈のために讃岐に701年8月に讃岐国府にやってきている。701年と言えば当時の讃岐国府の国主は道守朝臣(みちもりあそん)(701年~704年)である。国主道守朝臣とは萬濃池を築造した讃岐では英雄である。             満濃池では人麻呂と道守朝臣は会ったのだろうか実は私はこの結論にビビッている。柿本人麻呂と道守朝臣が合っていたなどと讃岐で言えばおそらく頭がどうかしている...

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無庵詩集(5)

の ぶ は んごぼっ    ごぼ   ごぼ暗い海の底から鉛色の大きな潜水ヘルメットをかぶった男が浮き上がってくる。港の船のライトやパトカーのライトが海面をキラキラ照らすのぶはんはまだ見つからないごぼっ    ごぼ   ごぼ暗い海の底から黒い潜水服の男が浮き上がってくる。港の船という船がライトを一斉に海面をキラキラ照らすだめだ!沖に流されとる!翌日のぶはんの死体が上がったのを聞いた人たちは口々に残念がっ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十一)

                     明石海峡大橋の下を行く船沙弥島の長崎の鼻近くにあるタンポ(湛甫)の存在は丸亀の中津から来た船が嵐に遭遇すればこの隠江に逃げ込んだということであり。長崎の鼻を廻ってナカンダ浜には避難しない。中の水門は 「那珂の港」というような原文書き換えの犯罪的行為は問題外として、多くの学者が支持する金倉川河口の中津説ではないという決定的な物的証拠によって讃岐への往還の...

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無庵詩集(4)

岸壁にたたずむ遠い昔のことだ。ふるさとの散歩道この道のすぐ先に太郎が住んでいた太郎はあれからどこへ行ったのだろう。太郎の父の葬儀の日、友だちと喪服の行列の中から顔を出したら太郎は僕らの姿を見つけてにやりと笑って手を振った。それから間もなく太郎は転校していったしゃべり、黙り、笑い、 泣き、やすらぎ、苦しむ・・・遠いふるさとの散歩道ぼくの生まれた町は海の香りに包まれた町入り江の船着き場錆びた錨の鉄の匂...

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石中死人歌から羇旅歌へ(十)

    大阪歴史博物館資料より三津埼 浪牟恐 隠江乃 舟尓公宣 奴嶋尓三津の埼浪を恐み隠り江の 舟なる公(きみ)は宣(の)らす奴嶋(のしま)に浪を恐み隠江(こもりえ)」の隠江(こもりえ)とは隠れた入江ということである。この歌の場合「浪を恐(かしこ)み」に続いているので嵐のため避難した入り江であるということがわかる。当時は現在のような天気予報がないわけだから突然嵐に襲われたのだろう。そのため航路にはいつ襲われていて...

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無庵詩集(3)

             雀(すずめ)雀の群がパッと飛びたつまるで海の中の小魚の群れのように数十羽の群がすばやく木から木へ池の上を旋回する。空から地面へ地面から木へ。木の葉が揺れるそして可愛い目であたりを見回したかと思うとたちまち空に向かいジグザグに飛びながらやがてクスノキのてっぺんへ太陽を背に黒い点になった雀たちが点々と拡がるまた地面に降り立ち草地を...

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石中死人歌から羇旅歌へ(九)

難波の津から淡路経由で讃岐を目指したと考えられる羇旅歌の存在は大正・昭和期の日本の国文学者武田 祐吉(たけだ ゆうきち)がすでに予言している。武田祐吉は斉藤茂吉が当時最高の万葉学者であるとたたえた学者である。『[羈の馬が奇]旅歌 八首(巻三・二四九-二五六)が、四国ゆきの際のものとしてあげられる。この八首は、それぞれ、三津の埼、敏馬の埼、淡路の野島が埼、藤江の浦、可古の島、明石の門、飼飯の海等の地名...

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無庵詩集(2)

    時             雨昨夜来の雨で公園の草はらは水浸し大きな水たまりができていた人の通らぬ水たまりは清く澄んで草たちを鮮やかに浮き上がらせていた秋風が吹くたびにその水たまりは小刻みに揺れた            いつのまにか また雨がふってきた 雨は音もなく落ちてきた ...

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石中死人歌から羇旅歌へ(八)

人麻呂が松山の津から船出していたことは重要な意味を持つ。彼は賓客として訪れていたのである。賓客として訪れていたということはその理由や時期が分かり易くなったということでもある。私は当時2つの理由を考えていた。それをひとつに絞りかねていた時、来賓としてきているのであれば、もしかしたらその道中、羇旅歌にそのヒントがあるのではないかとふと思いついたのである。ところがこのふとした思い付きがこれまで坂出の歴史...

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無庵詩集(1)

     春の日の夕暮れ   春の日の夕暮れ   ぼくは港に向かった。  辺りは白色に溶けていた。    目の前の道路は白く光り    空は鉛色にひろがり    太陽が白く輝いてる  埋立地を通り抜けると    こどもたちがあそんでいた。    幼子が白いセーラー服の娘を追いかけていた。    おそらくふたりは姉妹なのだろう  幼子が追いつくと姉は    笑いながら身をかわす    ひらりひらりと...

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石中死人歌から羇旅歌へ(七)

船浮而 吾榜来者 時風       ふねうけて   わがこぎくれば ときつかぜ  この時風(ときつかぜ)を「引き潮の前後時を定めて一時的に吹く風」と解説する学者もいますが毎日引き潮のたびに避難しなければならないほどの暴風が吹くなど絶対あり得ないことです。私はこの歌の舞台になった坂出の海の傍で生まれ育ちましたが一日のうち朝と夕方に陸風と海風が切り替わる時間帯に確かに風が吹きますがウチワで扇ぐ程度の心...

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石中死人歌から羇旅歌へ(六)

中乃水門従 船浮而 吾榜来者    なかのみなとゆ ふねうけて わがこぎくれば                         いよいよ人麻呂は中の水門(みなと)から船を浮かべて漕ぎ出します。人麻呂が讃岐国府の賓客として訪れていたということは人麻呂の乗った船は讃岐国府の最高の船であり、大陸との交易に使われていた大型船だったと想像できる。船員たちはもちろん林津(林田)の船乗りたちである。石中死人歌に登...

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石中死人歌から羇旅歌へ(五)

私は坂折峠近くに行ってみて愕然としました。そこはまさに軍王の歌の世界そのものだったのです。目の前に白峰連峰が広がっています「大君の 行幸(いでまし)の 山」とは白峰連峰でありそのふもとには行宮が建てられていた。その横には製塩土器遺跡が存在し、海人(あま)おとめらが塩を焼いていた。なんと軍王は見たままの風景を素直に詠っているのだろう。別れてきた妻の住む大和の方角(白峰連峰)から山越しに吹く風が、絶え間...

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石中死人歌から羇旅歌へ(四)

松山の津にあった讃岐国府の迎賓館の歴史を振り返ると舒明天皇の行幸における行宮に行き当たります。軍王歌がそのときの様子を詠っています。私が軍王歌が松山の津で詠われたものだと教えられたのは「綾・松山史」によるものです。香川県の小さな村に過ぎない綾・松山村の村史は1000頁をこえる分厚いものです。この村史を作成するために地域から提供された古文書等の「文書は数千点」に及ぶと書いています。特徴的なのは松山村...

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石中死人歌から羇旅歌へ(三)

人麻呂が松山の津から船出していたということは人麻呂は賓客であったいうことです。そのことは当時松山の津には迎賓館が立っていたということになります。886年 讃岐の国司としてやってきた菅原道真が松山の津にあった迎賓館である松山館に出入りし、美しい詩を残しています。晩春遊松山館(晩春に松山館に遊ぶ)です。菅家文草 222晩春遊松山館(晩春に松山館に遊ぶ)官舎交簷枕海脣     官舎(かんしゃ)簷(ひさし)を...

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石中死人歌から羇旅歌へ(二)

讃岐国府のある綾川河口には三つの港がありました。西から国津、林津、松山の津です。わたしは中央にあった林津が中の水門だと呼ばれていたと判断しました。当時林津は讃岐国府の外港として位置づけられ、国府からこの林津まで馬さし大貫という一直線の大道(距離は約5K。幅10~12m)が造られていました。また鎌倉時代には梶取(かじとり)という地名の存在が確認でき現在林田町にある東梶、西梶の由来が想定されるそうです...

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石中死人歌から羇旅歌へ(一)

何故大和島の姿を求めて私が神戸の海岸を探索していたのかを振り返ってみたいと思います。私は軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す坂出松山の津に関心を持ちライフワークの一つとして取り組んでいました。最初に取り上げたのは次の歌です。万葉集第二巻二二〇番  讃岐狭岑島視石中死人     (さぬきの さみねしまで いわのなかの しにひとをみて)  柿本朝臣人...

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明石の門より大和島発見

この神戸沖を映した(と、言うよりも映してしまった。)1枚の映像の意味の持つ大きさ、責任の重大さに何度も逃げ出したくなりました。この写真は明らかに人麻呂が詠った大和島の姿です。手前の二上山付近の山並の向こうにあるのは大和の山です。しかもこの山並は音羽三山「左から音羽山(852m) 経ガ塚山(889m) 熊ガ岳(904m) )です人麻呂羇旅歌八首に詠われた255天離  夷之長道従  戀来者  自明門  倭嶋所見[一本云 家門當見...

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プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。なお引用される場合は無庵「忘れられた古代港坂出松山の津と詩歌人」よりの記入をお願いします.
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