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石中死人歌から羇旅歌へ(十一)

羈旅歌讃岐 
                    明石海峡大橋の下を行く船


沙弥島の長崎の鼻近くにあるタンポ(湛甫)の存在は

丸亀の中津から来た船が嵐に遭遇すればこの隠江に逃げ込んだということであり。

長崎の鼻を廻ってナカンダ浜には避難しない。

中の水門は 「那珂の港」というような原文書き換えの犯罪的行為は問題外として、

多くの学者が支持する金倉川河口の中津説ではないという決定的な物的証拠によって

讃岐への往還の作(石中の死人歌も含め)が、1本の糸に繋がったのである。

つまり幻の大作「羇旅歌―讃岐(仮称)-」の存在が浮かび上がってきたのである。

しかも「中の水門」が「内なる水門」松山の津であることによって

人麻呂は 

①賓客として讃岐国府にきたわけだから歴史書に記載されている可能性が高い。

私が見つけたのは

《文武元年(六九七)閏十二月己亥(癸巳朔七)》○閏十二月己亥。播磨。備前。備中。周防。淡路。阿波。讃岐。伊予等国飢。*賑給之。又勿収負税。
(訳) 文武元年(六九七)閏十二月七日 播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予などの国に飢饉が起きたので,食糧などを与えた。また負税の取立てをやめさせた。

である。人麻呂はこの賑給のための使者としてきたのではないかということである。

*賑給(しんごう)とは国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。賑給に対しては852年仁壽3年3月使者を遣して播磨国の飢民を賑給せしむという例のように使者を遣している。

しかし飢饉の賑給のための旅と多くのすぐれた羇旅歌がどうしてもしっくり合わない。

羇旅歌讃岐の持つ迫力とは合わないのである。

もう一度歌を振り返ってみると特徴的な出来事が詠われている。それは台風と遭遇していることである。

②難波津を出発するとき

③帰りの中の水門を出発したときに台風に襲われている

この出来事は歴史書に記載されている可能性が強い。

この3点が重なる記述はないだろうか。そして探し当てたのが

701年
《大宝元年(七〇一)八月戊申(八)》○戊申。遣明法博士於六道。〈 除西海道。 〉講新令。
《大宝元年(七〇一)八月甲寅(十四)》○甲寅。播磨。淡路。紀伊三国言。大風潮漲。田園損傷。遣使巡監農桑、存問百姓。」
《大宝元年(七〇一)八月辛酉(廿一)》○辛酉。参河。遠江。相摸。近江。信濃。越前。佐渡。但馬。伯耆。出雲。備前。安芸。周防。長門。紀伊。讃岐。伊予十七国蝗。大風、壊百姓廬舍、損秋稼。

(訳)
大宝元年(七〇一)八月八日 明法博士を六道に派遣して,新令(大宝令)を講釈させた。
大宝元年(七〇一)八月十四日 播磨・淡路・紀伊の三国が「大風と高潮のために,水田や園地が被害を受けました」と言上した。使いを遣わして,農業・養蚕の状態を巡察し,人民を慰問させた。
大宝元年(七〇一)八月二十一日 参河・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐渡・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予の十七カ国に蝗の発生があり,大風が吹き人民の家屋が損壊し,秋の収穫に被害が出た。

701年8月8日の明法博士を六道の派遣と8月14日の台風とは6日間のずれがある。

8月14日の台風は紀伊水道をまっすぐ北上し淡路、播磨を襲ったという記述だが、現代の台風の規模の

常識から判断して 難波津付近も当然暴風圏に含まれていたと考えられる。

台風の「被害を受け言上した」とあるから実際の台風はこの日より前だったことがわかる。

被害の実態の調査の時間を差し引かねばならない。また8月8日の明法博士を六道の派遣もこの日一斉に

「よーい、ドン」したとも思えないのでずれが予想される。とくに「夷の国」讃岐への派遣は人麻呂に要請が

来たくらいだから遅れたと考えた方がいいだろう。

したがって人麻呂は新令(大宝令)の講釈のために讃岐に向かい難波津で播磨・淡路・紀伊の三国を

襲った台風に遭遇し隠江に避難したわけです。


「明法博士を六道に派遣して」とあるが明法博士(みょうほうはかせ)は、728年8月30日文章博士とともに設置された古代日本の律令制下において大学寮に属した官職の一つとされているからこの時代には明法博士はいない。
大宝律令の編集に関しては委員として皇族を始め藤原不比等や粟田真人らの名前が連ねる。ここに人麻呂の名前はない。しかし律令の作成に関しては国家的な事業として多くの人材が何らかの形で協力を要請されている。人麻呂も漢文に通じ言語学の達人としてオブザーバー的な形での参加は想像できる。大宝令の講釈(後の明法博士)のための「夷」の国讃岐へ派遣はおそらく不人気で講釈は下級の事務方がやり人麻呂は朝臣であり歌人としても有名であったからいわばお飾り的に選ばれたのだろう。

突然の「夷」の国、讃岐行の命令。それは宮廷歌人としての立場とは無縁の任務だった。

人麻呂にとっては屈辱的な派遣であったことが想像できます。

700年4月明日香皇女がなくなり明日香皇女の挽歌がつくられます。

この歌が人麻呂の制作年次の明らかな最期の歌だと言われています。

このことは持統天皇からも文武天皇からも歌の依頼がなくなったということです。

人麻呂を支えてきた高市皇子は696年7月にすでになくなっています。

従って羇旅歌讃岐は人麻呂が歌人としての名誉をかけて、研ぎ澄まされた感性のもとに詠われたのが

これらの羇旅歌なのです。しかも人麻呂にとって重要な女性が登場します、大和島の女性です。

その女性は251番歌に「妹之結 紐吹返(いもがむすびしひもふきかへす)」とありますから

紐によって縁が結ばれている女性=人麻呂の妻だと考えられます。

粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返
あわじの のじまのさきのはまかぜにいもがむすびしひもふきかへす
訳 淡路の野島の崎に吹く浜風に妻が結んだ祈りの紐が想いを載せて吹き返す。

羇旅歌「讃岐」はまさに人麻呂の固く閉じられた謎に迫る突破口になることだけは間違いないでしょう。



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