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(二〇)依羅娘子人麿と相別れたる歌

(二〇)依羅娘子人麿と相別れたる歌 依羅娘子は父人麻呂の帰りをひたすら待ち続けていました。そして父の死を知らされた娘は案内人と共に鴨山に駆けつけます。娘は泣き崩れ、人麻呂の遺体に抱きつき 号泣する。 号泣する。 号泣する。 一方村人たちは旅人の遺体をどうするか相談していた。 江川は周辺の村人にとって生活用水であり遺体を川べりに埋めることは許されないことだった。 従って自分たちの墓地の近くに旅人の遺...

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(二〇)依羅娘子人麿と相別れたる歌

(二〇)依羅娘子人麿と相別れたる歌 依羅娘子は父人麻呂の帰りをひたすら待ち続けていた そして父の死を知らされた娘は案内人と共に鴨山に駆けつける 娘は泣き崩れ、人麻呂の遺体に抱きつき 号泣する。 号泣する。 号泣する。 一方村人たちは旅人の遺体をどうするか相談していた。 江川は周辺の村人にとって生活用水であり遺体を川べりに埋めることは許されないことだった。 従って自分たちの墓地の近くに旅人の遺体を埋...

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(一八)柿本人麻呂の真実を追う

 一八 石見相聞歌いよいよこの「柿本人麻呂の真実を追う」も島根県を舞台にした最終章に入ります。人麻呂が住んでいたのは江川の川口に近い江津市都野津町(つのづまち)だったといわれている。都野津町は、ウィキペディアによるとかつて島根県那賀郡に属していた町です。江津市西部沿岸部にあたり、西部・南部を二宮地区に囲まれている。さらに内陸部へすすむと千田町・跡市町・有福温泉へと辿り着くことができる。北は日本...

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(一七)柿本人麻呂の真実を追う

石見相聞歌流罪になった人麻呂の住まいは江川(ごうかわ)河口近くの島根県都野津町だったといわれている。 流罪人だったとはいえ持統天皇の配慮で生活に困るようなことはなかったと考えられる。あとから来た娘とともに穏やかな日々を過ごしていたことでしょう。先に述べたように依羅乙女(よさみのおとめ)はこれまで石見の現地妻だと解釈されてきた。いかにも「色好みの人麻呂」と評価されてきた逸話である。専門家は 何故人麻...

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(十六)柿本人麻呂の真実を追う

 人麻呂が生涯愛し続けた紀臣訶佐麻呂の姫様が亡くなり軽の市にさまよっていた頃 藤原朝臣不比等は直廣貳藤原朝臣不比等舎人五十人を許され、大宝元年直広壱から正三位に叙せられやがて中納言から大納言となり、刑部親王のもとで『大宝律令』の編纂に活躍の場を広げていく。部下からの報告を受けた不比等は厳しく尋問するように指示する「お前が軽の市に出かけ叫び続けた女の名前は大逆罪を犯した紀臣訶佐麻呂の娘の名前であ...

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(十五)柿本人麻呂の真実を追う

 あゝ あの壬申の乱を共に戦った高市皇子が死す。高市皇子尊の城上の殯宮の柿本朝臣人麻呂の作れる歌 。持統天皇即位10年7月10日。高市皇子尊が薨去(こうきょ)された。あまりに若い43歳でした。しかし高市皇子は何故亡くなったのだろうか高市皇子の悲願だった藤原京建設はそれが最終目的ではない。あくまで将来の外国との対等外交を目指した都城の建設だったはずである。その高市皇子が自殺することは有り得ない、...

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(十四)柿本人麻呂の真実を追う

 引き続き人麻呂は行幸歌と並び多くの挽歌を任されている人麻呂挽歌 草壁皇子(くさかべのみこ)の殯宮のときに、柿本人麻呂の作った歌167 天地(あめつち)の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百万(やおよろず) 千万(ちよろず)神の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神(かむ)ばかり はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地...

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(十三)柿本人麻呂の真実を追う

  弓削皇子(ゆげのみこ)行幸歌巻2-111 / 額田王 巻2-112原文 幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王歌古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴済遊久吉野の宮に幸(いでま)しし時に、弓削皇子の額田王に贈り与へたる歌 古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の  御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く訳 昔を偲んでいる鳥なのでしょうか、弓絃葉の御井の上を鳴き渡ってゆきます。原文    幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額...

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(一二)柿本人麻呂の真実を追う

 巻向の妻は突然亡くなった。人麻呂は一人残された子供とともに槻の木の立つ堤の近くの家で暮らしていた。近くに住む親戚に子供の世話を頼みながら多忙な仕事をこなしていた。七夕歌の発表で宮中の女性たちに大人気になっていた人麻呂は持統天皇から高く評価される。ただし持統天皇は他の宮中の女性と違いこの歌人は日本を代表する歌人を集めた歌集(のちの万葉集)にかかわっていくだろうということを見抜いていた。人麻呂に...

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(十一)柿本人麻呂の真実を追う

天武天皇5(676)四月己未(きび)二十二日紀臣訶佐麻呂の家族は天皇の名において美濃國司に詔して曰「在礪杵郡(ときのこおり)にいる紀臣訶佐麻呂の子は、東の國に遷して、卽ち其國の百姓とせよ」という命令を受けるつまり大逆罪(たいぎゃくざい)として罰せられたわけである。人麻呂が歌人として頭角を現す頃、自分の存在が彼のためにならないと考えた織姫は人麻呂を激しく 拒絶してこの恋は終えた。 しかし人麻呂はその後も...

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プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。
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