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歌人・妻中河幹子(一)

中河幹子について明治28年(1895)7月30日香川県坂出町3560番―6生まれ。林卯吉の三女。明治45年県立丸亀高等女学校を首席で卒業。開校以来の才媛とされ、入学年齢に足らず大正2年奈良高等師範学校に推薦入学。しかし第2学年終了近く恋愛問題で自主退学。大正6年津田英学塾(現津田塾大)に入学大正9年中河与一と恋愛し結婚。学生結婚のはしりだった。牛込区源兵衛の大工の部屋を借りて住む。与一と結婚して驚いたのは与一の潔癖障害...

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赤い薔薇 (二)

赤い薔薇の花の幻覚に怯え続けた主人公は洗浄強迫から強迫性障害に陥るようになる。「彼は立ち上がると、冷たい額の花弁を洗い落とすために、昇汞水*の甕に手を浸しに行った。その毒薬は、たとえば彼にとっては今絶対的な信仰をもって、すべての不浄を清める消毒薬になっていた。それには少量の塩分が加えてあった。今の彼はそれなくしては生きられなくなっていた。それはもう彼にとっては恐怖すべき毒物ではなく危険な然し最も心...

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赤い薔薇 (一)

             赤い薔薇            大正10年「新公論」に発表        中河与一24歳「 朝、天から真紅の薔薇の花が落ちて來た。 それは初め華麗な幻覚であった。薔薇の花は緑色に晴れた空の中を赤い線を引きながら静かに落ちて來た。それは何か天使の着物の模様からはぐれて來た一輪の花のようであった。花はクルリクルリと廻りながら、時々花瓣の一つをはずした。すると、それは光りながら...

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絵よりも美しかった人

与一は偶然、運命の女性と出会うそのひとは絵よりも美しい女性だった。「そのころの美人の標準は、岡田三郎助描くところの端麗で健康さうな美人であるか、 さうでなければ竹久夢二の描く弱々しい詩的な女性であった。しかし彼女の美しさはそれらの絵に描かれた美人よりもはるかに美しく到底絵に描き表せるものではなかった」と、語る。その美しい女性は「私にとっての従妹であり、もっとくわしく言えば、私の母親の妹の娘に当たる...

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与一の母と中学生時代

「わたしの母は一口で言へば不羈(ふき)奔放人であったように思う。健康であり、情熱家であり、夢見る人であり、それでいて随分実行力のある人だった。父は今の香川県坂出市の人であり、母は岡山県瀬戸町の奥の山村の人であった。父が岡山市第六高等學校醫學部に通っていた頃、恋愛して結婚したのではないかと思ふ。そんなことはつひぞ聞かなかったが、母の実家の父は村の有力者であり、進歩的な人で、村の北端 にある砂山を背負...

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与一と父与吉郎

中河与一年表によると人麿碑建立当時のことが記録されている。「昭和一一(1936)年 三九歳一月末より衰弱はなはだしく、二月中句まで慶応病院に入院し輸血一六〇グラムを妻幹子より受ける。前年より連載中の「愛恋無限」を四月二〇日をもって完結。日活及び新興キネマと「愛恋無限」の映画化の契約が成立、撮影所を訪問し俳優たちと記念写真をとるものの、両者とも契約を実行せず、映画は実現しなかった。. . . . .人麿の遺跡を...

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プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。
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