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(十六)柿本人麻呂の真実を追う

 人麻呂が生涯愛し続けた紀臣訶佐麻呂の姫様が亡くなり軽の市

にさまよっていた頃 藤原朝臣不比等は直廣貳藤原朝臣不比等舎

人五十人を許され、大宝元年直広壱から正三位に叙せられ

やがて中納言から大納言となり、刑部親王のもとで『大宝律

令』の編纂に活躍の場を広げていく。部下からの報告を受けた

不比等は厳しく尋問するように指示する

「お前が軽の市に出かけ叫び続けた女の名前は大逆罪を犯した

紀臣訶佐麻呂の娘の名前である。」

「我々はお前が大逆罪を犯した音羽山の罪人に会いに行った

のを知っている」

「大逆罪を受けた女とお前との関係は?」

執拗な尋問が続いた


そして人麻呂はついに立ち上がり叫んでしまった。

「紀臣訶佐麻呂の娘は私の妻だ!」

大逆罪は子々孫々まで続く重い刑罰である。

部下から報告を受けた不比等は直ちに持統天皇に上申した。

しかし持統天皇にとって人麻呂は確かに高市皇子の葬儀の場で

高市皇子を大王と歌ったが高市皇子と人麻呂は壬申の乱で

共に戦った戦友だったと聞かされていた。

その彼を大王としたのも理解できないことではない。

しかも何より人麻呂は宮廷歌人として素晴らしい歌の数々を

残してくれた。

当時唐をはじめ諸外国では詩人は最も尊敬されていた。

優れた詩の存在こそ外国に評価されていたのである。

現代であればオリンピックで優れたスポーツマンを要して

いることが尊敬の対象になるが当時は詩であった。

従って持統天皇にとっては万葉集のような歌集の編纂も

視野に入っていたのではないかと思われる。

しかし大逆罪を許すわけにはいかない

新しい国家として大宝律令が制定されようとしている今、

天皇自らがそれを犯すわけにはいかない。

人麻呂の歌をとるのか大逆罪を犯した罪を取るのか

持統天皇は悩む。

そして不比等の上伸に対して持統天皇は苦渋の選択をする。

大逆罪を犯したとして石見への流罪を決定する。その時人麻呂

54歳石見に流罪になる人麻呂が罪人として宮中を離れたとき

持統天皇は直ちに人麻呂の家を探索し残された書き物を板切れ

一枚残さずもってくるよう命じた。

その使者たちは荷車に大量の書類を積んで帰ってきた。

その時数多くの歌が収集された。

そして大量の書類と一緒に使者はその家にいた一人の娘を

連れて帰ってきた。その娘は

「私は柿本人麻呂の娘です。」と話していた。

娘は直ちに持統天皇の前に呼ばれた。

「そなたは誠に柿本人麻呂殿の娘なのか」と尋ねた

娘は「はい 私の父は柿本人麻呂です。」と答えた

すると、持統天皇は玉座から駆け下り娘を抱きしめて泣いた。

「罪深い私を許しておくれ・・・」

そして直ちに娘を石見の柿本人麻呂のところへ送るように命じた

娘の名前は

「依羅乙女(よさみのおとめ)!」

依羅乙女(よさみのおとめ)とはこれまで石見の現地妻だと

されてきた。 しかし依羅とは現在の大阪市住吉区依羅

(よさみ)小学校のあるあたりを指す。そこで多くの研究者

にとって石見の現地妻の名前が何故大阪の地名依羅(よさみ)

なのか理解不能だった。正解は人麻呂の妻情熱の舞姫は

依羅(よさみ)生まれ生粋の浪速っ子だった

のである。その娘が依羅乙女(よさみのおとめ)なのである。
   




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プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。
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