FC2ブログ

記事一覧

3 舒明天皇と坂出

888年(仁和8年)菅原道真.が讃岐守として三度目の秋を迎えた時のことです。 在任中、最もうれしい

訪問がありました。 愛弟子、 文室時実(ふんやのときざね)の訪問です。時実(ときざね)は春の文章生

(もんじょうしょう)選抜試験の合格お礼に遠路、坂出に師を訪ねてきたのです。

怪來(あや)しばらくは言笑(げんゆう)夢の中に聞くならむかと

(君がことば、君が笑い声を聞いて、これは夢ではないかしらと怪しんでみる)

(菅家文草第4巻264 謝文進士新及第,拜辭老母,尋訪舊師より)

と、その時の喜びを道真は歌に残しています。時実40歳の合格でした。当時は40歳で初老と言われてい

ましたから、あまりに遅い合格でした。

時実は若い頃から*匏(ひさご)と言われてきました。そしては彼は苦学生でした。食べることもままなら

ない生活で、寒い冬も穴の開いたくつで雪道を歩いていました。

そのうえ時実は年老いた母親を抱えていました。その時実は道真がいなくなった後も独り努力を重ね、難関

の省試に合格したのです。

省試の合格の知らせが入ったとき、道真は彼の努力を讃える詩を残しています。

しかもただ合格を讃えるだけではなく、文章生になってからの時美(ときざね)が若い同僚からいじめられ

はしないかと心配してます。

年少(としわか)きひと若(も)し君が耄(おい)の及(およ)ばむことを 嘲(あざけ)らば

慇懃(ねむごろ)に為(ため)に河(かわ)の清(す)まむことを俟つと 解(かい)せよ

(年の若い連中に、もしも君はもうすぐ老いぼれになってしまうなどと言って笑おうものがいたなら、

*百年(ひゃくねん)河清(かせい)を俟(ま)つ心持なのだと解してきかせてやったらよい)                   

               (菅家文草第4巻245 聞文進士及第,題客舍壁 文室時實。)


師、道真は当時44歳でしたから時実(ときざね)のことが実の弟のように心配なのでしよう。

その時実がやってきたわけですから道真の喜びようが伝わってきます。

道真は時実を連れて坂出を案内して回ります。

そしてこのときの時実の訪問が道真の秀作「秋湖賦」を生むのです。

なぜ「秋湖賦」がそんなに高く評価されるのでしょうか、それは愛弟子時実に対して自分の持つすべてを伝

授しようと語りかけた「*賦」なのです。

つまり弟子を想う心が詠わせた「賦」によって菅原道真という天才の実像を明らかにしたのです。

その「秋湖賦」の前奏曲とでもいえるのが次に紹介する「江上晚秋(晩秋の綾川のほとり)」です。

*匏(ひさご)     ひょうたん。能無しの意味
*百年河清(かせい)を俟(ま)つ  常に濁っている黄河の澄むのを待つ
*賦(ふ)   詩経」の六義(りくぎ)の一つ。漢詩の表現・修辞による分類の一つで,
比喩によらず, 心に感じたことや事物を直叙したもの。

この歌には「6軍王が見た風景(二)」で紹介しましたスズキの話と

そしてカモメが登場します。

菅家文草第4巻266 江上晚秋(晩秋の川のほとり)


不敢閑居任意愁 敢(あ)へて閑居(かんきょ)して意(こころ)の任(ほしきまま)に

            愁(うれ)ふるにはあらず 

山銜落日分陰駐 山は落日を銜(ふふ)みて分陰(ふんいん)駐(とどま)る

水趁凋年一種流 水は凋年(ちょうねん)を趁(お)ひて一種(いっしゅ)流らふ

鷗鳥從將天性狎 鷗鳥(おうちょう)は天性に從將(よ)りて狎(な)れたり 

鱸魚妄被土風羞 鱸魚(ろぎょ)は妄(みだ)りて土風(どふう)羞(すす)められる 

銷憂自有平沙步 憂(うれ)へを銷(け)さむには自(おのづか)らに平沙(へいさ)の步(あよ)び有り 

王粲何煩獨上樓 王粲(おうさん)何(なん)ぞ煩(わづら)ひて獨(ひと)り樓(ろう)に上りけむ

訳 あへて好んで家にとじこもり、毎日気ままに感傷に浸っているのではない。

わが身を誘って川のほとりにでかけ、すがすがしい秋景色の中に立つ。

山(城山)の端に日が落ちかかろうとして、しばらくの間沈むのをためらうかに見える。

水の流れ(綾川)は暮れゆく年の時間を追いかけるように、同じように流れゆく

海近い川のほとりをカモメは天性によって人に馴れ、飛び交う

スズキは地元の名産ということでむやみにとっては勧められる

憂(うれ)へを消すためにはこの平らかな砂原を歩けばよい

かの王粲(おうさん)はどうしてわざわざ樓(ろう)に登ったりしたのであろう



*凋年(ちょうねん) 暮れゆく年。
*分陰(ふんいん   わずか一分 (ぶ) の光陰。きわめて短い時間
*鷗鳥(おうちょう)  カモメ
*鱸魚(ろぎょ)    スズキ
*平沙(へいさ)   広々とした砂原。
*王粲(おうさん)  後漢末~三国時代の魏の文学者,詩人

この歌は綾坂橋から江尻(地名が示すように昔は江尻が海岸線で河口だった)へと向かう歌です。

最初の場所は綾川に架かる綾坂橋  あたりから城山を見た風景です。


まさに「落日を銜(ふふ)みて分陰(ふんいん)駐(とどま)る」という描写は

夕暮れ近い城山の風景そのものです。

「銜(ふふ)みて」という意味は「ふくんで」という意味で、山が落日をふくんで一瞬留まって見える

という描写なのですがこの位置から城山を見ていると確かにそんなふうに見えるときがあるのです。

落ちかけた日が城山の稜線に留まってまぶしく光っている感じです。

「すごい!」と、道真の繊細な描写力に改めて驚かされます。

このあたりは讃岐国庁跡推定地に近く、道真の住んだ場所という伝承が残る天神地区にも近いのです。

道をまっすぐ行くと崇徳院が幽閉されていた鼓が丘にでます。

鼓が丘はまさに国府の中にあったと言っていいほどすぐ傍にあるちいさな丘です。

松山の御堂や長命寺の仮御所の時と違って厳しい監視下に置かれていたことがわかります。

道真はこの綾坂橋あたりから川下の江尻町までよく馬に乗って(秋湖賦では馬に乗って移動している)出か

けています。坂出に来た当時は江尻に来ては瀬居島の沖、備讃海峡を望みながら京都を偲んでいまし

たが、秋湖賦を詠った頃は江尻への道を詩想を深める場として好んで出かけたようです。

秋湖賦の前奏曲である「江上晚秋」も、ただ淡々と綾川に沿って歩みながら風景を詠んだよう見えますが

隣には時実がおり、時実に話しかけた内容です。おそらく

「文章生になった後も君(時実)は苦しい道を歩まなければならない。

そして自分(道真)はそんな君を助けることはできない。

苦しいときは王粲(おうさん)のようにわざわざ高い樓(ろう)に上る必要はない。

自分のすむ近くの場所でよいから自然の中に出かけなさい。そうすれば憂いを消すことができるだろう」

と、解釈できます。

私が気になったのはこの「江上晚秋」に詠われている

「鷗鳥(おうちょう)は天性に從將(よ)りて狎(な)れたり 」の部分です

もしかしたら道真に近づいていったこの人馴れしたカモメたちは

舒明天皇にも近づいていったのではないか? と。





綾川左岸。 「道真と時実の道」を行く。
後ろの山が城山です。https://goo.gl/maps/tDw5jS74Z5RZciBR8


現在の綾川は川尻橋のところで100M位の川幅しかありませんが当時の綾川は
雄山近くから江尻町まで2000Mほどの川幅がありました。川の中には,大小の中洲があり、林津なども
中洲にその機能を分散させてつくられていたようです。(「松山津周辺の景観」の中の地図より)
正面に見えるのが瀬居島です
下の写真は引き潮の河口です。右手奥に岡山の山々が見えます。
詩に詠われた平沙(へいさ)とはこのような風景の中に
あったと考えられます。ここが秋湖賦の主要な舞台であり、
カモメが乱舞する海だったのです



綾川河口https://goo.gl/maps/xXW3bWXAWhUkR6MYA

「道真と時実の道」
菅原道真は坂出に文化遺産といえるほどの多くの詩を遺してくれていますが
綾坂橋から江尻に至る「道真と時実の道」は、二人の師弟愛を讃える貴重な
坂出の文化遺産のひとつではないでしょうか。








関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

無庵

Author:無庵
忘れられた古代港がある。都から遠く離れしかも主要航路でなかった北四国側にあったこの港に、軍王、人麻呂、道真、崇徳院、西行、寂念など飛鳥、平安時代を代表する詩歌人が足跡を残す。しかも彼らにとっていずれも重要な意味を持つ作品を残している。坂出松山の津はまさに奇跡の港と言えよう。なお引用される場合は無庵「忘れられた古代港坂出松山の津と詩歌人」よりの記入をお願いします.
ランキングに参加しています。
応援クリックお願いします!


詩集ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

これまでの訪問者数

最新記事